先日、OECD(経済協力開発機構)が発表した国際的な学習到達度調査「PISA2022」で、日本は数学的リテラシーでOECD加盟国中1位、全参加国・地域中でも5位と、世界トップレベルとなった。一方で、生徒たちの数学に対する興味や関心が低いことが課題として指摘されている。
世界的には「今後ますます重要になる」と、注目度が高まり続けている数学。
単に公式を当てはめて計算するのではなく、試行錯誤しながら問題を解決していく。そんな数学を学ぶ楽しさや数学が担う社会での役割を知ってもらおうと考案されたのが「ロボット数学」というプログラムだ。板橋区では現在これを中心に、広く科学技術を探究する地域化したクラブ活動「科学技術クラブ」を運営している。
これは、日本のロボット工学の第一人者である、東京大学名誉教授の佐藤知正氏がチームリーダーとなり、埼玉大学准教授の琴坂信哉氏、千葉工業大学教授の林原靖男氏とで開発したもので、中学受験指導で日本最難関・灘中学合格日本一の実績をもつ浜学園グループが運営する。ロボットをリアルに動かすことで、数学への興味を掻き立てるとともに、学校の成績アップにもつながるという秀逸なカリキュラムとなっている。
東京都板橋区では、2023年5月から始めた中学生のための新しい放課後活動いたばし地域クラブ「科学技術クラブ」で、いち早くこのプログラムを導入した。2007年の就任以来、先見性のある教育ビジョンを推進してきた板橋区の坂本健区長と、「ロボット数学」の考案者である佐藤知正氏による対談で語られた、子供たちが数学に興味をもち、楽しみながら得意になれる環境づくりとは。

「科学技術で世の中を変える人材を育てたい」という思いから始まった
--最初に、佐藤先生はなぜ「ロボット数学」というプログラムを始めようと思ったのか、お聞かせいただけますか。
佐藤氏:日本は戦後、科学技術立国として復興してきました。しかし、日本経済成長が停滞した「失われた30年」の間には、技術力で諸外国に勝っても、産業化に負けてしまうという事例が多発しました。こうした背景があって、「科学技術で世の中を変える人材を育てたい」という科学技術イノベーション人材の育成への思いが強くなり、このプログラムをつくりました。
もうひとつ、私自身が50年以上にわたってロボットの研究を続けてきたこともあって、「好き」から始めて、楽しみながら学んでいける場をつくりたいという思いもありました。


坂本氏:ロボットを動かすことを含め、ものづくりの実体験というのは、子供たちの「やってみたい」という意欲や、「もっと知りたい」という探究心に火をつけますね。私も、そうした機会を得られる環境づくりが非常に重要だと考え、今年の5月から、区立中学校の部活動改革の一環として、「いたばし地域クラブ」を立ち上げました。これは、板橋区に住んでいる中学生であれば誰でも参加できる放課後活動で、科学技術クラブの他に、女子サッカークラブ、eスポーツクラブもあります。自治体としては、学校での勉強以外にも、自分の好きなことや得意なことが認められる場をつくってあげる必要があると考えています。
佐藤氏:「好き」なことに挑戦する。そして、関連する知識や技術を学んで「得意」になってもらう。世界の教育の潮流は、すでにそうなっています。挑戦してうまくいかなくても、試行錯誤の経験を通して、自分に何が足りないのかに気付き、もっと知りたいという気持ちが湧いてくる。そこで子供たちは、「学び方を学ぶ」のです。学び方を学べば、「好き」は「得意」になっていく。そして時には、自分の好きなことで徹底的に無駄をする。その無駄も、次の飛躍を生み、何らかの形で世の中の役に立っていくと思うのです。
ロボットを通じて数学の概念が身に付く
--科学技術クラブの中心である「ロボット数学はどんなカリキュラムなのですか?
佐藤氏:数学の単元にロボット実習を導入し、ロボットという目に見える具体例で説明することによって、数学の概念や、実社会で役立っていることを実感して理解してもらえます。このプログラムは、私達と、過去にロボカップ世界大会を5連覇したロボットメーカーであるヴィストンが長い時間かけて議論して開発したものですが、数学の単元についての内容は、指導経験が豊富な浜学園のベテラン講師陣が監修してくださっています。

坂本氏:板橋区は製造業もさかんで、戦前には軍需産業が集積していたこともあって、現在でも精密・光学機器企業の本社や工場が多い地域です。ロボット産業はこれからの成長が期待され、世界でも成長戦略の中心的な分野ですので、板橋区の中学生たちがロボット工学に触れておくことにはとても価値があると感じています。

--ロボットを動かすうえで必要な「数学の概念」を学べるとのことですが、机上の数学との相乗効果はどのようにして生まれるのでしょうか。
佐藤氏:数学には抽象的で理解しにくい概念がたくさん出てきますが、残念ながらまだ多くの子供たちは、なぜそれを勉強するのかがわかっていません。たんに公式や解き方を覚えるのではなく、一体それを使って何ができるのかをロボットを使って確かめることで、より深い知識の定着が期待できるのです。
--なるほど。子供たちはロボット数学を経験することで、後に授業で聞いて、「あっ、これはもしかして、あのことかも」といった“アハ体験”*ができるということでしょうか。*アハ体験:ドイツの心理学者カール・ビューラーが提唱した心理学上の概念。「Aha」とは「なるほど!」「へぇ~!」という感動詞で、何かのきっかけで、これまで理解できなかったことが突然理解できるような体験のこと。一発で学習が成立する「一発学習」ともよばれている。
佐藤氏:そうですね。先に基本的な概念がロボットを使って理解できているので、もう一回授業で聞くことによって、「こういうことだったのか」と腹落ちしやすいのだと思います。
さらに、ロボットを使えば、数学理論の理解だけでなく、社会実装が重要であることを中学生のうちから理解できます。実際にロボットを動かしてみると、計算が合っていれば動くはずなのに、現実世界ではさまざまな要因で思ったように動いてくれないこともあります。この体験が実に重要なのです。
ロボットを、実際に人が生活している社会へ実装するには、さまざまな困難が伴います。このような事実も説明することにより、学びの動機付けができるように考えられています。
--実社会では、書いてある通りにやってもできないということのほうが多いかもしれませんね。机上の理論とは異なり、現実にはありとあらゆる現場でトライ&エラーが繰り広げられているわけですが、それが体験、実感できるということですね。
坂本氏:学びでも仕事でもそうですが、たとえ失敗しても、そのアプローチを誰かが評価してくれると、また別の方法でやってみようという気持ちになって、思いがけない成果を生むことがあります。イノベーションには、まさにそうしたトライ&エラーが不可欠だと思うのですが、これまでの学校教育では正解か不正解かで評価されるので、子供たちが不正解というリスクを避けようと、新しいチャレンジに億劫になりがちでした。だからこそ、板橋区の科学技術クラブでは、子供たちが何度でもトライでき、失敗しても立ち直れる力を育てること。つまり、安心して失敗し、それを糧にまたチャレンジしようとする環境をつくっていく。これが教育においてはいちばん大事だと思っています。
佐藤氏: おっしゃるとおりですね。新しく何かにチャレンジする際、東大でも「なぜできないか」の理由を並べる学生の話をたびたび耳にしてきました。でも、「どうしたらできるか」という発想、チャレンジ精神が大事なのですね。
ですから、子供たちが初めて数学に触れる中学校の段階から、ロボット工学での課題に取り組むことで、多少困難性がある問題であっても「なんとか対処できないか」と考えられるような粘り強さや主体性、やり抜く力といった問題解決能力を身に付けてほしいと思っているのです。
子供の原体験は将来に影響する
--先ほど「失われた30年」のお話がありましたが、ものづくりという点で日本が世界をけん引できたのはなぜでしょうか。
佐藤氏:日本人は「改善(カイゼン)」が得意です。実は、ロボットの最初の特許はアメリカで取得されているのですが、工場生産に適用する際の問題点に対処し、改善に次ぐ改善を集積することで実用レベルにしてきたのは日本です。そうした技術を熟成する力というのは、日本がこれまで世界の中でもっとも長けていたところですね。
坂本氏:そうですね。現在でも、職人の技を含めた技術力の面で見れば、日本はまだ高いレベルにあるのではないでしょうか。私は建築の世界に長くおりましたので、奈良の東大寺をはじめとした木造建築のように、先人から脈々と受け継がれてきた優れた技術を、今こそ見直すべきではないかと考えています。
そう思わせてくれるのは、2022年に建築のノーベル賞といわれる「プリツカー賞」を受賞したディエベド・フランシス・ケレ氏です。彼が、 地元固有の素材や自然、文化とつながりながら、人々やコミュニティに力を与え、地球環境にも持続可能なイノベーションを実践していることが世界的に高く評価されているように、私たち板橋区でも、地域で培ってきたものと、ロボットのような新しい技術とを組み合わせて、新しくユニークで、なおかつサステナブルなものが生まれる土壌をつくっていけたらと思っています。
佐藤氏:とても興味深いお話ですね。私は大学をリタイアした身ですが、子供たちにロボット数学を通じて科学技術に慣れ親しんでもらいながら、工学の基礎が社会にどのように実装されているかを伝えていきたいと思っています。
国際的な学習到達度調査(PISA)の結果にも表れているように、日本の子供たちのポテンシャルは高いわけですから、自信をもって、未来に役立つ新たなイノベーションを生み出してくれることを期待したいです。

--子供時代の原体験というのは将来に影響すると言われており、科学技術クラブでの活動は、将来につながる貴重な原体験になりそうです。最後に、学校現場ではプログラミング教育の導入や英語教育の早期化、探究へのシフトなど、親世代には経験のない学びが次々と始まり、保護者からは情報過多で疲弊する声も聞かれます。今、子育て中の保護者に向けて、あらためてお二人それぞれが教育にかける思いをお話しいただけますか。
坂本氏:知識や技能という基礎は学校で学びつつ、佐藤先生がご指摘された社会実装、つまり社会のどんなことに生かされているのかやなぜ勉強するのかといった問いの答えは、学校の外での体験を通じて体感できることが多いのではないかと思います。その点、板橋区の教育への取組みでは、佐藤先生のような専門家をはじめ、区内の多くの企業からもたくさんのお力をいただいてきたことが最大の強みだと言えるでしょう。今後も、そうやって連携をとりながら、プログラムをサポートする人材を充実させていきたいと考えています。そして、ロボット数学をはじめとする、学校以外の学びの場を地域の子供たちに提供していきますので、保護者の方々には、お子さんが将来の選択肢の幅を広げていけるような機会としてご活用いただけたらと思います。
佐藤氏:板橋区という自治体で、子供たちにこうした学びの場を提供していただけることは今後の日本にとっても重要なことで、プログラムの監修者としてとてもありがたく思っています。
世の中は多様化していますが、数学から得られる力はあらゆる場面で生かされます。ロボットと一緒に楽しく数学を学びながら、ひとりひとりが個性を大事に、「好き」を自分の得意にして大いに活躍してほしい。そう心から願っています。
--ありがとうございました。
学校の勉強と結びつき、学力も興味も向上する
【お話:板橋区教育委員会 教育総務課長 諸橋達昭氏】
板橋区の科学技術クラブは、中学校の部活動改革「いたばし地域クラブ」から始まりました。対象となるのは板橋区在住の7年生(中学1年生)から9年生(中学3年生)で、既存の部活動とは違う、学校では体験できない新しい価値を子供たちに提供することを目的として進めています。
板橋区では、部活動改革のコンセプトに「学校単位からの脱却」を掲げ、板橋区に住んでいる対象年齢の子供であれば誰でも参加が可能です。特に、区外の私立などに通っていると、地元に友だちや知り合いがいないということもあり、こうした課題の解消も期待しています。
科学技術クラブは、オンライン(週2回)と対面(週1回)での座学、ロボット実習(月1回)のほか、夏休みなどの期間に、企業見学などを行っています。参加費は月額2,000円で、板橋区内の中学校で開催しています。2023年5月にスタートしましたが、実際に活動を見学したところ、佐藤先生の講義を前のめりに聞いているようすが見られました。
「ロボット数学」のカリキュラムは、「学校の勉強との結びつきを意識して作られている」点が秀逸だと思います。参加した子供たちの学業面も向上し、かつロボットのプログラミングも上達していく。そういった合わせ技で、非常に楽しめているようです。
板橋区の教育では「STEAM教育」を柱のひとつに据えています。学校では、まず「知る」ところから始め、次にその知ったことを、どう「創る」に生かしていくかという順番で学ぶのが一般的ですが、科学技術クラブでは、まず「創りたい」という思いがあり、その方法を知るために、数学を学ぶという順番になります。その結果、学校とはまた違う形で、子供たちの興味が深まっていきます。とても魅力的なプログラムで、ロボットやPCの知識がなくても問題なく、誰でも参加できるものになっていますので、ぜひ沢山の子供たちに参加してほしいと思います。
「ロボット数学」を運営する浜学園グループのHILS・個別教育部門Hamaxでは、導入を検討する自治体や教育委員会、学校からの問い合わせを下記Webサイトのフォームより受付けている。
浜学園グループのHILS・個別教育部門Hamaxが運営する「ロボット数学」のお問合せはこちら